当たり前の基準

幹部スタッフが「今のスタッフは最高だ、最強だ」、と絶賛されていますが、過去に大変だった時期があるからそう思えるのだと感じます。
クリニックの運営を30年以上行ってきて、色んなことが少しづつ改善してきています。
幹部スタッフは10年以上の長期にわたって勤務してくれているので、10年以上のスパンの中でのクリニックや人材の移り変わりを実感しているのだと思います。

自分自身の考え方や成長においても、10年前の自分と比較したり、20年前の自分と比較して全然変わっていないということはないでしょう。
10年前の日本と今の日本を比べても、かなりの変化や成長を感じます。
もしも自分は変わっていなくても、社会や周りの環境が変わってくるので、嫌がおうにも自分も変わらざるをえないのが人生なのだと思います。

人生において、感謝できることで幸せを感じられます。
感謝の反対は「当たり前」だと言われています。
今の現状を「ありがたい」と思うのか「当たり前」と思うのかは、何と比較しているかで変わってきます。

毎月100万円もらっている人が90万円の給与をもらうと「不幸」に感じますが、毎月20万円の給与の人が30万円の給与をもらうとすごく「幸せ」を感じます。
90万円と30万円に絶対的な意味はないですが、比較する対象が違うことで幸せか不幸かが決まってしまいます。

発展途上国の子供の笑顔は輝いているが、裕福な国の子供は笑顔が少ないと言っていた人がいますが、発展途上の国の人の「普通のこと」と裕福な国の人の「普通のこと」の受け止め方が違うのだと思います。
私が子供のころには、停電や断水などの不便なことが定期的に起こっていました。
自転車も頻繁にパンクしたり、チェーンが外れていました。
しかし、今の日本で停電や断水、自転車のチェーンが外れるという経験を私は30年以上経験していません。
時代とともにいろんなことが改良発展してきて、「当たり前の基準」がどんどん高くなってきます。

「当たり前」と思えることには「感謝」の気持ちがわかないです。
ましてや「当たり前」以下のことが起こると、不平や不満の原因になって、ネガティブな言動の元になります。
「当たり前」の基準が上がってくるということは、感謝できる機会が減ってくるということになります。
「幸せ」とは「感謝できる機会が多い事」だと思うので、世の中で起きることはみんなに平等に与えられているとすれば、「当たり前」の基準値がどんどん高くなっていくにつれてどんどん不幸になっていくということになっています。

今後も時代はどんどん進化発展していきます。
生まれた時から携帯電話があった人にとって、携帯電話のない時代と比べることは経験していないので比較できません。
私の時代には、家でコードレス電話ができただけでも感動していましたが、そういう不便な時代と比較できるということは「当たり前」の基準を下げる際に役立ちます。

当クリニックもどんどん進化発展していくと、スタッフの求める基準や「当たり前」がどんどん高くなってきます。
昔はよくも悪くも、スタッフにとって納得いかないことや理不尽なことが横行していたと思います。
そういう経験を耐えてきた人にとっては、「あのころに比べれば、今は幸せ!!」と自分を納得させられる比較対象物があることは凄く幸せなことだと思います。

「若い時の苦労は買ってでもしろ!!」という名言がありますが、なかなか自分から苦労を買ってでもしようとは思えませんが、若い時ぐらいは目の前に起きている、一見、不幸だとか、ついてないと感じられる苦労とかを受け入れて向き合うことが、将来的に自分の「当たり前」の基準を下げてくれる財産になるのだと思います。

「嫌だな~~」と思ったことを「嫌だ!」と素直に言動にうつすのがいいとされることもありますが、心の中で「嫌だな~」「やりたくないな~」と思っていても、やせ我慢して「ハイ、やります」ということで将来的な幸せ貯金をしていることもたくさんあるのだと思います。

神様は、「不幸の仮面をつけさせて幸せの使者を送り込む」と言われています。
そういう望まない状況に直面した際には、「〇×のせいで………」と不平不満が出てきますが、時間がたってそれを受け入れた状況では同じ出来事を「〇×のおかげで……」と言っている自分に気が付きます。
「〇×のせいで………」と言っていた出来事を「〇×のおかげで……」と言っている自分に気が付いた時に、あの出来事は神様からのプレゼントだったことにやっと気が付き、不平不満を言っていた当時の自分を反省する繰り返しになります。
「悟り」とは、目の前の望んでいない出来事でさえ、神様の意図に早めに気づいて受け入れれることができるようになることかと思います。
「悟る」ことは簡単ではないですが、少しでも悟りに近づいて負の感情を減らすために
大切なことは、「目の前に起こっていることは全て良いことで、自分に必要な何かを伝えるために起こっている」とプラスに考えられる信念ではないかと思います。
それが「自分は神様に守られているのだから自分の身の回りには良い事しか起こらない」と信じられれば、「自分はついていない!」と感じることが減ってくるのではないかと思います。
たいていの嫌なことは、時間がたったら「〇×のせいで………」と言っていた出来事が「〇×のおかげで……」に置き換わっているものですが、遅かれ早かれどうせそういう風に受け止め方が変わるのであれば、嫌に感じている時間を少なくしておいた方が得だし、嫌に感じる時間が少なくなっていくことを「悟り」に近づいているというのかとも感じます。

 

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