学生時代に、たまたまビジネス雑誌を手に取ることがあって、「社会って成功法則を真似れば失敗しなくて済むのではないか!?」と真剣に考えたことがありました。
学生時代は勉強すれば成績が上がって評価の対象になります。
座学でも評価の対象になるので、「勉強したもの勝ち!」のような思い込みがありました。
一方、社会に出て人生経験を重ねていくうちに、「勉強したもの勝ち!」という成功法則は社会では成り立たない経験を何度もするようになりました。
必ずしも高学歴の人が成功するわけではないですし、学生時代に成績が良かった人が成功しているわけではない現実を目の当たりにすると、勉強や知識の量と成功との関係を疑うようになってきました。
もしも、私が周りの歯科医師よりも結果を出している、と思われているとしたら、それは私の勉強量や知識の量が周りの歯医者よりも多いことが理由ではなくて、たくさん行動してたくさん失敗してきたからだと思います。
誰しも失敗はしたくないです。
失敗して嫌な思いをしたり、傷つきたくないのは人間の本能だと思います。
「失敗したくない、傷つきたくない」という本能に抵抗して行動していくには、「行動する理由」があったのだと思います。
その理由は、危機感であったり、コンプレックスであったり、責任感であったりと色んな要因が絡み合って、失敗のリスクを受け入れてでも行動したのだと思います。
今の私が大切にしている考え方に、「人は痛い目に合わないと学べない!」ということがあります。
学生時代は座学でも評価されましたが、社会人になってからは「座学では使い物にならない知識が多い」というのが実感です。
同じ知識でも痛い目にあって得た知識と、ぬるま湯において得た知識とでは、自分の武器としての知識としては雲泥の差があると思っています。
痛い目にあって得た知識は「一生の武器」になりますが、ぬるま湯的に与えられた知識はすぐに忘れて「使い物にはならない
ケースが多いです。
マゾ(ヒスト)でもなければ人は誰しも、失敗して痛い目にはあいたくないでしょう!(笑)
しかし、痛い目に合うからこそ、その経験が忘れられない経験になったり、必死にそこから抜け出そうとして知恵を振り絞るのだと思います。
「痛い目には合いたくない、しかし、痛い目に合わなければ自分の武器にはなりえない!!」
この矛盾を感じた経験を社会人になってから、幾度かしてきました。
今思うと、学生時代の座学で得た知識はあくまでも「知識」であって、痛い目にあって学んだ知識は「知恵」に転換されているのだと思います。
知識を知恵に転換するために必要なのが経験なのだと思います。
経験には成功体験と失敗体験がありますが、成功体験だけ得ようとしても無理なので、成功したければたくさん失敗して痛い目に合うことを受け入れていくしかないのだと思います。
生きていくということは、いろんな経験を重ねていくことだと思います。
物事がうまくいかない時に、嫌になったり投げやりになったりしますが、「痛い目にあっている時だけが成長している時なのだ」と信じて「Welcome trouble!」と強がって生きていきたいものです。